「EXECTIVE’S Choice――ゼロフィニッシュだけあればいい!」Vol.9
アサカワスピード代表・浅川邦夫さん

1978年、第1回鈴鹿8時間耐久レース。ポップ吉村こと吉村秀雄さんが率いるヨシムラチーム(YOSHIMURA R&D チーム)のスズキ・GS1000が、無敵艦隊と言われたホンダ・RCB軍団を破り記念すべき年のウィナーとなった。

このとき、現アサカワスピード代表の浅川邦夫さんはヨシムラチームのメカニックとしてピットで忙しく働いていた。とはいえ、まだヨシムラの社員ではなく、ポップの娘婿の加藤昇平さんが経営する「ヨシムラパーツショップ加藤」のお客さんであり、そのショップのレーシングチームのライダーに過ぎなかったが、人手が足りないからと駆り出されたのであった。

そして、このときの勝利がその後の浅川さんの人生を変えることになった。

もうこれしかないと、この鈴鹿8耐のあと、浅川さんは実家を飛び出して、ヨシムラの社員となった。

ここから始まった浅川さんのバイク漬けの人生。いまは自分のショップで、お客さんのバイクの整備に勤しむ日々だが、そこは超一流レーシングチームでメカニックとして働いた経験から、丁寧かつ確実な作業がたくさんのお客様の熱い支持を受けている。

そして、浅川さん曰く、整備の基本はバイクをきれいにすること。バイクがきれいだと、オイル漏れなどのトラブルも事前に発見でき、レース中の致命的な事態を未然に防げるのである。

長年、徹底してバイクを磨き上げてきた浅川さんは、ゼロフィニッシュをどんな風に感じられただろうか。

ヨシムラでのメインの仕事はおやじさんのカバン持ち

第1回鈴鹿8時間耐久レースを制したスズキ・GS1000のテストと慣らし走行を行ったのは、誰あろう浅川さんだった。

というのも、ヨシムラの開発ライダーを務めていた加藤昇平さんが骨折していてバイクに乗ることができなかったため、浅川さんが富士スピードウェイでGS1000を走らせたのだった。

そう、優勝した8耐マシンは浅川さんが深くかかわっていたもの。それだけに、第1回鈴鹿8耐での優勝はその後の浅川さんの人生を変えるほどの大きなことで、ヨシムラに入社してレースにかかわることはとてつもなくやりがいのあることだと感じたという。

入社した78年当時、ヨシムラの社員はわずかに数人だけ。しかし、ポップがアメリカから帰国して、本格的に日本を拠点にして、80年に現在のヨシムラ・ジャパンがある神奈川県愛川町に「ヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパン」の工場を構えてからはビジネスも広がり、それにつれて従業員の数も増えていった。

浅川さんの仕事は、次第にメカニック兼テストライダーから、営業全般を見る役割へと変わっていった。

「88年くらいがメカニックとしての仕事は最後で、89年に営業企画部長になってメカニックたちをまとめる役と、スポンサー獲得の営業や市販パーツの企画などを中心にやっていました」

そして、もうひとつの大切な仕事がポップの「カバン持ち」だった。

「当時、ヨシムラのメインスポンサーだった共石(日鉱共石・現在のENEOS)さんのシエットGP-1というガソリンの開発もヨシムラで行っていて、その関係で日本各地で行われるガソリンスタンドの店長さんたちを集めた大会におやじさん(ポップのこと)が講演に呼ばれた際、いつも自分がカバン持ちとして付いて行きました」

そのうち、地方の大会ではポップに代わって浅川さんが講演をするようにもなったそうだ。

そして、レースのときはスポンサーのアテンド役をこなさなければいけなくて、メカニックとしてレースにかかわることはほとんどなくなっていったのだった。

しかし、会社を運営していくうえで欠かせない市販パーツの企画と開発は浅川さんの重要な仕事だった。いまや伝説にもなっている市販コンプリートマシン、「TORNADO 1200 BONNNEBILLE(トルネード1200ボンネビル)」の開発を担当したのも浅川さんだ。

スズキの油冷GSX-R1100をベースに、ヨシムラのチューニングノウハウをフル投入して作られたバイクで、最高速度は290㎞/h以上というモンスターの開発は、浅川さんのひとつの思いから始まった。

スズキ|トルネード1200ボンネビル|スーパースポーツ|suzuki|ヨシムラ

ヨシムラ・TORNADO 1200 BONNNEBILLEにまたがる浅川さん。おそらく広告用の写真撮影だったのではとのこと。

「ヨシムラに入社してくる若い人たちは、みんなレースメカニックになりたいんですけど、全員がレースに携われるわけではなくて、当然、市販パーツの開発担当メカニックになる人もいる。彼らは、レースにかかわれなくて不満を持ったりしていたので、奮起させるためにこのバイクの企画をしたんです」

カムシャフトやピストンはレースパーツと同じものを組み込んで、まさしくヨシムラのレースマシンのレプリカを自分たちの手で作り上げるというプロジェクトは、否が応でも市販パーツ担当のメカニックたちを熱中させた。浅川さんは開発責任者として陣頭指揮を執りながら、自らテストライダーとしてマシンを仕上げていったのだった。

気が付けば、ヨシムラにかかわって15年が経っていた

TORNADO 1200 BONNNEBILLEの製作のような世間の注目を集める派手な仕事はメインではなく、浅川さんの重要な仕事はヨシムラのビジネスの中核を担う市販マフラーの開発・製造。86、87年くらいに、マフラーの素材がそれまでの鉄からステンレスに移行する際は、ヨシムラが求めるパイプは特別なサイズだったため特注品となり、納入業者に発注する単位も最小で1トン。当然、莫大な支払い金額が必要になる。それでも浅川さんは、必要だと判断して発注に踏み切ったという。

その後も、ポップが発明した「デュプレックスサイクロン」という、1番と2番、3番と4番のそれぞれ2本のエキゾーストパイプに小さなチャンバーを設けて排気圧力を干渉させて性能アップを実現する、複雑な構造のマフラーがヨシムラの主力となると、製造管理の業務が浅川さんの重要な仕事になっていった。

「排気漏れなんかがあると大問題ですから、この頃は営業部長をしながら下請けのマフラー工場にも頻繁に通っていました」

8耐での優勝に感動して入社したヨシムラだったが、携わる業務はどんどん変化して、レースとはいつの間にか距離が生まれていた。

「パーツショップ加藤のチーム員になってヨシムラとのかかわりができてから15年くらい経っていて、潮時かなぁと思い91年9月にヨシムラを退社しました」

ちょうど実家が営んでいた運送業の手伝いをして欲しいと言われていたこともあり、運送業をしながら、バイクは趣味で楽しむものにしよう。そう思った浅川さんは、年内は自由にさせて欲しいと親に頼み、BMWのR100を購入して北海道・東北のツーリングに出かけた。その旅の道中で、今後の人生について考えようという気持ちもあったのだという。

しかし、そう簡単に浅川さんはレースの世界から足を洗うことはできなかったのである。

これ1本でバイク全部に使えるところがいい

車検で預かった車両は、フェンダーを外して裏までピカピカに磨くほどで、見えないところまでキレイに仕上げることを心がけている浅川さん。

「クルマと違って、バイクは局面で構成されていて手が届かない箇所もたくさんあるけど、ゼロフィニッシュなら簡単にスプレーできるから便利ですよね。拭き取りも簡単で手間がかからないことも気に入りました」

以前は他社のコーティング剤を気に入って使用していたが、小傷なども取ってくれる半面、少量の研磨剤が入っているため細かい粉が出ることがあったというが、ゼロフィニッシュなら小傷の間に入り込んでコーティングしてくれるので、磨きカスが出ることもなくとても使いやすいとのこと。

「ヘルメットにも使えるし、耐熱性も高いから、マフラーやエンジンを含め、バイク全体がこれ1本で行けちゃう点もすごくいいですね。磨いた後の光沢も美しいし、ゴミやホコリもつきにくい。あとは、いろいろなところに使って耐久性をしっかり確認しようと思っています」

丁寧な仕事を身上とする浅川さんに、ゼロフィニッシュという強い味方が加わったようだ。

近所のライダーが頼ってくれるショップにしようと思った

浅川さんがツーリングから戻ってきた頃、スズキワークスでGP500クラスに参戦していた辻本聡さんが保土ヶ谷にある浅川さんの実家に来て、スズキを辞めてホンダのNSR500で参戦しようと思うと相談を持ち掛けた。

付き合いの深い辻本さんに懇願された浅川さんは、レース資金調達のためにスポンサー集めに奔走した。

その頃、共石がコンビニエンスストアのam/pmを立ち上げ、共石の販促課長が社長に就任していた。浅川さんは旧知のその方を訪ね、チ-ムのスポンサーになって欲しいと依頼。その社長は、コンビニの店内にある什器メーカーや食品の納入業者などに声を掛けてくれて、小口スポンサーが数十社集まり、なんとか参戦に必要な資金を調達することができた。

8耐|レース|GP500|NSR500

最高峰のGP500㏄クラスを2年間戦ったam/pmレーシングチームは、ライダーの辻本選手(写真右から5番目)、監督の浅川さん(同左端)、ヨシムラライダーとして8耐2位入賞の経験を持つメカニック担当の高吉克郎さん(同右から4番目) 、そしてマネージャーの江崎純子さん(同左から3人目)の4人がレギュラーメンバーの小所帯。レースになると友人・知人の助けを借りて参戦していた。

そして92~93年の2年間、浅川さんがチーム監督に就いた「am/pmレーシングチーム」は辻本聡選手+ホンダ・NSR500で国内の最高峰クラスでレースを戦った。

2シーズン目の最終戦の数戦前、辻本選手が転倒・負傷して、その後のレースに出られなくなった。しかし、スポンサーの手前、欠場を続けるわけにもいかず、その年の世界GPが終了して日本に帰国していた青木宣篤選手(当時はWGP250㏄クラスに参戦)を代替ライダーにして参戦したところ、シリーズ最終戦の筑波ラウンドで青木選手が見事に優勝。ひとつの区切りがついたと、浅川さんはそこでチームを解散して、自らのバイクショップ「アサカワスピード」を保土ヶ谷の実家でスタートした。93年のことだった。

日本を代表するレーシングチームであるヨシムラで働き、TORNADO 1200 BONNNEBILLEの開発責任者を務めた経験もある浅川さんだから、カスタムを中心としたショップだと思いがちだが、そうではなくて浅川さんが目指したのは整備を中心としたメンテナンス主体のショップだった。

「自分が免許を取って間もないころに、近所のバイクショップに面倒を見てもらったように、近所のライダーのバイクの面倒を見るショップをやりたかったんです」

2002年に、現在の横浜市青葉区にショップを移転してからも、その方針は変わっていない。

ただ、2004年、50歳を目前にした浅川さんは、「やり残したことがある」と一念発起して、全日本ロードレース選手権のST600クラスにエントリー。ヨシムラでは諸事情からレース参戦を禁じられていた浅川さんにとって念願のレース参戦だった。

スズキ・GSX-R600で全日本選手権ST600クラスにフルエントリーした浅川さんだったが、その当時のGSX-R600は戦闘力が低く苦戦を強いられたそうだ。とはいえ、翌年、筑波サーキットで開催されたMCFAJクラブマンレース第2戦で優勝するなど(写真下)、浅川さんのライダーとしてのポテンシャルの高さを疑う余地はない。

1シーズン、フルに参戦したのちにすっぱりとレースの世界から足を洗い、日々地味なバイクの整備に勤しむ日々に戻った。

とはいえ、現在も定期的にサーキットを走ってライディングスキルを磨くことは怠らない。

「速く走れる人が言っているんだから納得する、というのがあるでしょう。自分の言葉に説得力を持たせるためにも、スキルは磨いておかないと」

アプリリア|aprilia|rsv4|サーキット|走行会

タイヤメーカーのピレリジャパンが開催するサーキットイベントの「FUN TRACK DAY」で先導ライダーを務めている浅川さん。年に数回のサーキット走行で、ライディングスキルを磨くのは決して怠らない。

そんな浅川さんのショップには、バイクの整備を依頼する人が引きも切らない。近所のライダーだけではなく、浅川さんの技術を頼って遠方から来るお客さんももちろんいる。

取材当日も、国の重要無形文化財に指定されている能楽師の大倉正之助さんが愛車の車検の依頼に訪れていたが、著名人の顧客もたくさんいらっしゃるのだ。

「おやじさんから学んだのは、ネバーギブアップの精神。バイクの整備も簡単なことばかりじゃなく、ネジの頭だけ取れちゃって難儀するようなこともたくさんあります。そんなときも絶対にあきらめずに、お客さんが喜んでくれるような仕事をすることを心がけています」

ヨシムラ|直筆|書

ショップ内に飾られているポップ吉村さんの直筆の書。巨大なワークスチームに町工場のヨシムラが立ち向かい撃破できたのは、ネバーギブアップ、「勝って兜の緒を締めよ」の精神だった。

部品点数も少なくて、勝つか負けるかの結果がすべてのレースよりも、一般の市販バイクの整備のほうがよっぽど大変だという浅川さん。これからも、お客さんが満足してくれる丁寧な仕事を続けられていくことだろう。

ゼロフィニッシュ|メンテナンス|整備

Photo/Shigeru Tokunaga

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取材協力

アサカワスピード
神奈川県横浜市青葉区寺家町603-2
TEL&FAX:045-961-9622
営業時間:10:00~19:00(日曜日は~17:00)
定休日:毎週月、火曜日
http://www.asakawaspeed.com/

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