
お客さんを、笑顔に。
FROM INSIDE #17 プロが魅せられた“ゼロフィニッシュ”
ビッグスクーターという日本独自のカテゴリーの中で
内外に多くのファンを生んだ、ホンダ・フュージョン。
その絶対的にコンフォートな乗り心地に魅せられた
「M.M.F」代表の増田裕士さんによる、ゼロフィニッシュへの所感。
目次
フュージョンに惚れ込んだ男
ビッグスクーターという日本独自のカテゴリーを牽引し、たくさんのファンを生んだホンダ・フュージョン。発売は1986年、彼の地アメリカでは「ヘリックス」のネーミングで知られている。1625mmというロングなホイールベースに架装された低いフォルムのボディデザインはじつに個性的で、その乗り味もまたオリジナリティあふれるきわめてコンフォートなものだった。一度でも乗ったことのある方であれば、きっと「あのライポジ、シート、まるで居間のソファみたいで最高だよね!」となるだろう。
そんなフュージョンに惚れ込んで、ついにはフュージョンの専門店を立ち上げてしまった人物が今回の主人公だ。
はじめてお会いした「M.M.F」代表の増田裕士さんには、気むずかしそうなところが一切ない。想いきわまって一車主義をつらぬくショップオーナーさん……の頑固イメージ(失礼!)をひょいと飛び越え、撮影とインタビューには終始笑顔で応えてくれる。そんなさわやかな35歳のルーツがますます知りたくなった。

ミニ四駆とマセラッティ
東京は下町、南小岩生まれの増田さんは幼いころからクルマに興味があった。造園業を営んでいた元メカニックの父がクルマ好きなこともあって、いっしょに東京モーターショーに行ったことはいまでも忘れられない思い出のひとつだ。日ごろから造園の現場などにも連れていってくれたので、増田さんにとって父親との記憶の輪郭はわりとはっきりしているという。増田さんには3人の姉がいるというのだが、待望の4人目、初の男の子への愛情を感じてしまうエピソードだ。
「お庭の植栽を美しくととのえて最終日。お客さんである家主の方にとても喜ばれている、感謝されている様子はいまでもしっかりと覚えています。このころから人に喜んでもらえる仕事っていいなと、どこかでうっすらと感じていました」
その後、小学生だった増田少年は幾度めかのブームであったミニ四駆にハマる。お金のかかった友人の速いマシンへの悔しさ半面、「どうしてこんなにも違うのか、むしろその理由が知りたい」と思うようになった。
「自分が持っていたミニ四駆はシャイニングスコーピオン、当時流行っていたミニ四駆マンガの主人公のマシンでしたね。組み立て説明書を再度確認して、ぜんぶバラして一から組み立て直すことを繰り返していました。当時は、かつて東京モーターショーのブースで見て感銘を受けたマセラッティとどことなく似ていると思っていたんですが、いま見るとぜんぜん似ていませんね(笑)。
そこからプラモデルにどハマりするまでに時間はそれほどかかりませんでした。はじめて買ったプラモはタミヤのS13シルビア、小学3年生くらいのことです」

メカニズムの仕組みを知りたい
そして増田さんの興味は次に、デコトラへと向く。なかなか変遷が激しいが、多感な少年時代はいつも移り気だ。小遣いをためては専門誌「カミオン」を買って熟読した。もう中学生になっていた。
「アートトラックの世界にも激しく魅了されました。エアブラシを駆使して描かれたド派手なペイント……子どもなりに、その技術のハイレベルさに胸が震えましたね。トラッカーになりたいというわけではありません。トラックそのものにものすごく関心がありました」
手に入れたい、オーナーになりたいというわけではない。圧倒的な存在への畏怖みたいなものだろうか。
「そして中学も3年生になると、将来の進路のことを考えないといけないタイミングです。自分はメカニックになることをほぼ決めていたので、整備士コースのある高校に進学することを希望していました。そこでカスタムの世界のことはいったんわきに置いておき、ミニ四駆以来もともと自分の根っこにあるメカニズムへの本来的な探究心、『仕組みを知りたい』という気持ちがだんだんと心の中で大きな部分を占めるようになっていきます。メカニックという職業へのモチベーションが、日に日に高まっていった時期でした」

遅れてきたレプリカ小僧
そんな折、中学校卒業も間近という初春に増田さんはバイクと出会う。“走り屋”へと変貌していた先輩たちが乗っていたホンダNSR250、NSR50。かつて見たことのない変わったノリモノへの興味に端を発し、「乗ってみたい」「免許とらなきゃ」「ヒザ擦ってみたい!」と気持ちが昂ぶっていった。
「そうして手に入れたのがヤマハのTZR50です。仲間も徐々に増えていき、つるんで向かった先はお決まりの工業団地や埠頭。世の中ではカスタムしたTW200が流行っていましたが、僕の興味は旧世代のレーサーレプリカへまっしぐら。オーディオにエアロに、というビッグスクーター・ブームの時も、僕はといえばズボンを2着はいて、さらにガムテでまな板を巻いてヒザ擦りですから(笑)。
いっぽう、学校のエンジン整備の授業ではキャブレターのセッティングがうまく出来なくて不満がたまっていました。アタマで理解しているつもりでも、実際の作業となるとうまく結果が出ない。加えて愛車TZRのコンディションは一向に上向かないし、キャブセットもうまく出せなくて……イライラしていました」
これではダメだと思った増田さん。もともとのコンディションが悪かったこともあって、「この次はちゃんとしたバイクを買おう」とTZR50を手放し、アルバイトを始める。その後愛車をヤマハTZM50、アプリリアRS50とつないでいった。

「今度」じゃダメだった
「さらにNS-1は5台も乗りつぎましたね(笑)。追って、長年の走り屋仲間から88年式のNSR250Rをゆずってもらいます。そのころは自動車用品の量販店で働いていたのですが、その売り場でとても仲良くなったバイク好きの先輩がいたんです。
しかし悲しい話なのですが、彼が交通事故でいきなり亡くなってしまった。『愛車のスクーターのブレーキの調子が悪い』と言って僕と別れた、その直後の出来事でした。そのことはいまでも、悔やんでも悔やみきれません。『こんど会ったときに直しますよ』は“こんど”じゃダメだったんです。『そんなバイクには絶対に乗るな!』と言って、すぐに引きずり下ろすべきだった。こんな辛いことは決して二度と起こしちゃいけない──そのときほど強く感じたことはありませんでした」
しばらくバイクに乗れない日々が続いた増田さんは「もう乗れないかも」と思い詰め、持っていたバイクもぜんぶ売り払ってしまった。その後高校、そして自動車専門学校を卒業し、メカニックとして国産車のディーラーに就職する。二十歳だった。
「正社員としてたくさんのメカニック、そして接客経験を積みながら、プライベートではその頃クルマのドリフトにハマっていました。いろいろあってドリフトはやめたのですが、その後転職した重機整備とオペレーターはそれまでの仕事とまた違った雰囲気で刺激を受けましたね。
その職場への通勤手段としてバイク通勤を久しぶりに再開したんです。結果的にそれが、バイクライフへの復帰ということになりました。最初こそ原付2種のアドレスに乗っていたのですが、そのうちにもう少し大きな排気量のバイクに乗りたくなって……そこで巡り合ったのが現在の自分の生業につながるフュージョンです」

フュージョンの豊かさを知る
バイク業界的にはビッグスクーターブームの潮がすっかり引いたあとだったが、増田さんにはいっさい関係なし。「こんなカッコいいバイクがあったのか。しかもカスタムパーツがめちゃくちゃ充実してるじゃない!」と興奮冷めやらぬままにユーズドを手に入れた。
「それまでスクーターに乗ったことがなかったわけではなかったのですが、250ccのスクーターはその時がはじめて。モノとしてのあまりの“良さ”に衝撃を受けました。シートの座り心地なんて最高で、かつてのアメ車を思い起こさせるフワフワとした……って、乗ったことなかったんですが(笑)、それに似た豊かさみたいなものをフュージョンに強く感じてしまいました。R&Bにしても乗り物のカスタムにしても、もともとUSカルチャーに興味があったので、そこにピタッとフュージョンがハマった感じでした」
性格的に、ハマったら一気。そんな増田さんのアメリカ傾倒はものすごい勢いで加速し、ついに“あるアイデア”へと至る。そのアイデアとは、重機の仕事をやめてアメリカで働くこと。ワーキングホリデー制度というものがあることを知って膝を打ったが、残念、アメリカにはその制度がなかった。ニュージーランドを選択肢に入れようと考えもしたが、最終的にはアメリカに地続きという理由でカナダに決めた。渡米するつもりで北米のカナダに渡った。
「出国する直前まで5〜6台のフュージョンを持っていたのですが、それらをぜんぶ売却してカナダに行きました。でも『これだけは手放さないぞ』という部品だけは手もとに残しておきましたけどね。帰国したときに、またフュージョンに乗るつもりだったので」

ワーキングホリデーで北米・カナダへ
カナダの語学学校に通いつつ探したクルマ関係の仕事だったが、なかなか就職先は見つからない。洗車などのアルバイトをしながら日々過ごしていた。
「そんなときに、たまたま鈑金ショップの求人を発見します。すぐにアプローチし、カナダ生活での後半はそのショップでお世話になりました。お約束の洗車やオイル交換から始まりましたが、僕の仕事ぶりを見るやいなやすぐにもっと高度な故障診断から修理までさまざまな作業を任せてくれるように。
もともとは安かった基本給でしたが、それにスキル分を上乗せしてくれた最初のギャラを手渡しでもらったときは、とても嬉しかったですねえ(笑)。カナダに来てはじめて、自分が認められたような気持ちになりました」
そのショップで増田さんは“磨き”を教えてもらった。それまで専門のツールを使って行うような技術は習得したことがなかったので、閉店後にひとりで黙々と練習したという。帰国後のことも考えながらスキルアップに励んだのだ。
そしてカナダから帰国して程なくして、増田さんはフュージョン専門店をオープンさせる。「日本にはこんないいバイクがある。だったらもっとその良さを伝えていきたい──」。そんな決意をカタチにしてしまった。

MASU MOTOR FACTORYをオープン!
お店を出してから徐々に増田さんのショップ「M.M.F」には、フュージョンがいい、フュージョンじゃなきゃダメ、というフュージョン愛好家が集まるようになった。バイクならなんでもいい、ではなく、バイクの中でもとりわけフュージョンが好き、というお客さんと交わすコミュニケーションが前提の、文字通りのオンリーショップ。増田さんとしては願ったり叶ったり、本懐だろう。
「かつてバイクに熱を上げていたライダーが、バイクをふたたび、という気持ちでフュージョンを選んでくれることが多いですね。自分とスタンスが同じなので、その点に共感とやりがいを感じます。認知度のこともあって初動こそ簡単ではありませんでしたが、動画の効果を含めて徐々にフュージョン専門ショップがあることを知ってもらえるようになり、そこから軌道に乗るようになりました。
ことフュージョンに関しては、困ったときにアドバイスを求めることができる“先達”がいないので苦労も多いですが、そのぶんやりがいも大きい。あとは研究あるのみですね。答えを導き出すのにどうしても時間がかかりますが、結果的に身につけさえすればそれでいいと今は思っています」

汎用性バツグンなゼロフィニッシュ
増田さんが自分のショップで実現したいことのひとつに、カナダで身につけた磨きスキルをフュージョンにも施工したいというビジョンがある。それをショップの特色にして、フュージョンをピカピカにする。輝きを取り戻した愛車を見たお客さんが喜ぶ様を見たい──と望んでいる。
「今回はじめて使ってみたシュアラスターのゼロフィニッシュですが、まず伸びの良さが際立ってよかったですね。ライトな感触で、塗装面でスッと伸びてくれる。これなら誰にとっても扱いやすいと思います。洗車をしたあとのボディに、全体的に塗り広げていくときにはとても重宝するはずです」
とはいえ増田さんは磨きのプロフェッショナル。そんなプロ目線から言えば、どこか至らない点もあるのではないだろうか?
「僕のように、日ごろからプロユースの機材とケミカル剤を使っているメカニックは『多少扱いにくくても長持ちする方がいい』と思うのは当然でしょう。しかし一般のユーザーさんにとっては扱いやすいことが一番大切だということも分かっています。その観点から言えば、ゼロフィニッシュはわがままなニーズにしっかり応えてくれるフレンドリーなケミカル剤だと感じますね」

ゼロフィニッシュがボディを守ってくれる
ゼロフィニッシュのどんな性能が優れているのだろうか。具体的に話してもらった。
「プロが施工する一層目の強固なガラスコーティングを、ゼロフィニッシュが二層目としてさらにプロテクトしてくれる……なんてことが現実的に可能です。一層目を守ってくれる優れたケミカル剤の存在は頼もしいですし、艶や光沢の維持にひと役買ってくれることは間違いありません。互いが補完することで長所を高め合うなんて、ステキですよね。ガラスコーティングの効果はそれくらい、誰にとってもわかりやすいものなんです」
増田さんは進学した工業高校で、生涯の師とあおぐ教師と出会ったことを最後に話してくれた。自身、その出会いは人生でもっとも大きな出来事だったと振り返る。それほど大きなインパクトがあった。
「その先生がおっしゃっていた言葉の数々は、いまでもしっかりと自分の胸に刻まれています。『どんなにいい技術を持っていて、どんなにいい人柄でも、お客さまを満足させられないメカニックは半人前』『ひとりのメカニックとして自立していなければ、プロとしての未来はない』『お客さまを笑顔にする整備士であれ』……。それらの言葉が錆びつくことはありません。忘れることなんて一生ないと思います」

笑顔が最大のモチベーションです
ときにそれらの言葉を思い出し、反芻し、気持ちをあらためる。
「自分が将来なりたかったのは……なんでも直せる万能メカニックではない。そのことに気がつくことができました。お客さんに喜んでもらえたときの笑顔が、すべて。メカニックである自分にとって、それが最大のモチベーションなんです」
よりよいバイクライフを楽しむためにできることは何ですか? 最後にそんな問いを増田さんに投げかけてみた。
「機械はいきもの、フュージョンもいきもの。すでに車歴が長くなってしまったフュージョンですが、過去どれだけメンテナンスに手間と費用をかけたかによってコンディションが決まってきます。しっかりとすみずみまで手を加えてあげることで、本物のフュージョン=本来のフュージョンのパフォーマンスが体感できる。メカニズムをはじめとしたバイクの中身についてはプロのメカニックに任せて、オーナーさんは“外見”に愛情と手間を注いであげてください。そんなときにゼロフィニッシュのような優秀なケミカル剤は、きっとあなたの味方になってくれるはずです」

photo:高柳健 text:宮崎正行
記事で紹介されたアイテム
取材協力
M.M.F
日本のスクーター史において一時代を築いたホンダ製250ccスクーター「フュージョン」を専門に扱うプロショップ。国内外でメカニックとしてのキャリアを積んだ代表の増田裕士さんが地元佐倉市でオープンし、以後フュージョンフリークスのお客さんたちの信頼を集めながら日々丁寧なメンテナンスやカスタム、ブラッシュアップを行っている。
千葉県佐倉市中志津4-2-14 ▲090-8805-1986
www.mmf2018.shop
営業時間:13~20時
定休日:水、第三木曜日
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MASAYUKI MIYAZAKI
宮崎正行
人文系出版社・夏目書房、自動車系出版社・二玄社/ボイスパブリケーション(『MOTO NAVI』、『NAVI CARS』、『BICYCLE NAVI』編集部)勤務を経て、編集フリーランスとして独立。オートバイ、クルマの専門誌から一般誌、WEB、広告媒体において幅広くコンテンツを制作する。1971年生まれ。自分のアイデンティティは小中高時代を過ごした中野区にあるとひけらかしつつ、大半の時間を埼玉県で費やす。中途半端に旧いモノが大好き。
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