
FROM INSIDE #03 プロが魅せられた“ゼロフィニッシュ”
バイクをライディングするときの、乗車フォームを思い浮かべてほしい。
「K&H」代表の上山力さんに イージーでハイクオリティな“ゼロフィニッシュ”体験をしてもらった
車体とライダーをつないでいるのは、左右の両手両足、そしてセンターのヒップのみだ。ここでライディング云々を解説することはしないが、ライダーのポジション決めでもっとも大切な支点となるシートというパーツの重要性を考えたとき、にわかに純正シートの造りに違和感をおぼえ、疑問をいだき、もっとクオリティの高い社外製シートの装着を考えはじめる。
「もしかしたら、ライディングがもっとポジティブで楽しいものになるんじゃないか……」
この心情、その想像はごくごく自然なものだ。
ハーレーやBMW、KTM、数々の国産車用モデルを中心に、カスタムシートやFRP製パーツの製造・販売を行う「K&H/ケイアンドエイチ」は、1970年代より秋元紀一(あきもときいち)氏と中山博(なかやまひろし)氏の両名でFRPパーツの試作を開始。1976年に「紀一と博F.R.P.研究所」という名称で創業し、以来カフェレーサーをはじめ多くのカスタムパーツを世に送り出しファンを獲得した。1987年に現在の「株式会社ケイアンドエイチ」に改称し、現在も多くのプロダクトを世に送り出す。
自身も多くのバイクを所有するバイクフリークである、代表の上山力さんにお話を伺った。
目次
SRが大好きだった上山少年
紀一と博、と聞いてすぐに「ああ、あのK&Hね」と思いをめぐらす読者は、おおむね40代以上の熱心なバイクファンにちがいない。プライベーターとして名を馳せた1970年代から、のちにFRP製作会社として世に広く知られるまであっという間だったK&Hは、カスタムバイクの世界のパイオニアである。
そんなK&Hを現在、先頭に立って引っ張るのが上山さんだ。
「16歳の兄がタンデムでバイクを走らせ、父母がクルマで並走して京都まで旅してしまうような家族でした。タンデムシートに座っていたのが、四人兄弟の末っ子で当時8歳だった僕。どうもクルマ酔いするのがイヤだったらしいです(笑)」
そんな上山さん自身も16歳になってすぐに二輪免許を取得、当時かなり安くなっていた中古のヤマハSRを購入した。
「当時はレーサーレプリカが全盛期で、同級生もみな心を奪われていました。でも自分はそっち方向にはあまり興味がなかった。興味津々だったのは単気筒マシンで、購読誌はクラブマン……そんなちょっと斜に構えた少年でしたね。20万円に満たなかった金額で、先輩からノートン・マンクス仕様のSRをゆずってもらいました。それが1台目の愛車です。 その後もSRばかり3台を乗り継いだのですが、19歳のときにはじめて新車でSRを購入したんです。ほどなくして『ちょっとシートを換えたいな……』と考えて、自宅の近くにショップを構えていたK&Hを訪ねたことが、すべてのきっかけでした」
手を動かすことが忘れられなくて
はじめてK&Hの門をくぐった上山さんだったが、なぜかそのとき対応してくれた中山さんはシートを売ってくれなかったらしい。
「でもけっして感じが悪いわけではなくて、シート以外にも『自分はこんなデザインのガソリンタンクが欲しいんです』という話もしました。そして図々しくも『既存の製品にはないものだから、できれば作り方を教えてほしい』と頼んでみたら、以外にもファクトリーの中を見せてくれたんです。
普通、職人さんは仕事場に他人を入れるのを嫌がりますよね。だからそのことには、ちょっとビックリしました。『ガソリンタンクは難しいけれど、サイドカバーやフェンダーとかだったら、できるかもね』とフレンドリーに話してくれたことを今でも忘れません」
そんな奇縁でつながった上山さんと中山さん。学生時代はK&Hでアルバイトとして働いたものの卒業前には就活をし、春からはスーツを着て“フツー”の社会人としての生活を送った。それが自分のためであることも、なんとなく自覚はしていたという。
しかし手を動かすことの楽しさがどうしても忘れられなくて、上山さんはふたたび中山さんを訪ねた。働かせてください、という言葉を中山さんは快く受け入れてくれた。
K&Hの試行錯誤、そして現在の姿へ
上山さんが働き始めたK&Hは、インジェクションスポンジでシートを製作するための大型工業マシンを導入する。試行錯誤のうえ2000年くらいからシート製作を本格的にスタートさせた。これは大きなトライだったらしい。
「ハーレー用や国産車用のシートの型から製作をはじめ、徐々にバリエーションを増やしました。じつは入社当初中山から、『3年で技術をマスターして独立しなさい』と言われていましたし、自分もそのつもりで働いていたんです。K&Hらしくないと中山に反対されつつ、どうしても作りたかった新規の企画商品に関しては、社内で別ブランドeggsを立ち上げました。結果的にそれらの売り上げを伸ばすことができたので、自信を深めることもできましたね。もちろん同時に、中山に認めてもらいたくて、というのもありました(笑)」
ただし上山さんのなかでは、企画から製作、販売までをすべて自分で完結できないと、独立後の成功にはつながってこないことを感じ始めていた時期でもあったという。
「いろいろあって僕が40歳のときにK&Hの経営を任されるようになりました。考え方やアプローチの違いなどはもちろん多くありましたが、モノ作りの現場の人間としての中山へのリスペクトは今も昔もまったく変わりません。いいものを作りたいというキモチの根っこにあるものは、職人はみな同じですから」
職人か? 経営者か?
上山さんには最近、周囲の方からのこんな問いかけがあるという。あなたは職人なんですか? それとも経営者なんですか? そんなときはこう答えている。
「僕はべつに経営がしたいわけじゃない。いいモノが作りたいだけなんです。ただ、いいモノを作るためには経営者が必要不可欠。作る人、売る人、経理をする人、経営をする人……それぞれ役割を分けたほうがいい側面があるのは事実だと思います。もし誰かが経営を代わってくれるのであれば、僕は作る人でありたいですね。新規のシート開発のために1年でだいたい2万キロ以上を走行しますが、まったく苦ではありません」
すこし前、上山さんにはいかに多くのパーツを出荷し、値付けのことばかりに腐心していた時期があったという。日々売り上げを伸ばすことに心を砕き、その先にある風景を想像できなかった。
「そういう薄利多売の弊害を身をもって知った経験を経て、今があります。製作現場を手許に置くことでハイクオリティを維持する基本姿勢──そんな現在のK&Hの方針に、ブレはまったくありません。ユーザーフレンドリーな視点も昔のまま。いいモノを作るためのコストや作業をいとわないぶん、それがプライスに反映されても仕方がないとポジティブに思っています。言ってみれば、あえて手間を増やしたわけですから(笑)」
いちばん試したいのは愛車
自身の興味の赴くままにカスタムパーツの世界の扉を叩いた上山さん。けっして低くはなかったいくつもの壁を乗り越えて、名門K&Hのブランドとともにたくさんのスタッフを引っ張っている。
そんな上山さんの日々の負担を減らしてくれるケミカル剤、シュアラスター・ゼロフィニッシュ。彼はそのグリーンボトルをこう評してくれた。
「朝霞のファクトリーには、プロダクトを展示するショールームを併設しています。そこにはK&H製パーツを装着した国産車/外車、オンロード/オフロード、さまざまなジャンルのバイクが並べられている。単一メーカーや同じジャンルのバイクだけではなく、いろんなカテゴリーのバイクが雑然とあるのって、ライダーはやっぱりワクワクしちゃいますよね(笑)。
もちろんバイクたちもいつもキレイな状態でディスプレイしたいけれど、その手間はなかなかのもの。ゼロフィニッシュはたった1本で汚れ落としと艶出しの二役を颯爽とこなしてくれます。たったひと吹き、たったひと拭き、それだけでしっとりピカピカになる。こんなにイージーでいいのだろうか……というくらいに簡単なんです。
光沢だけじゃない、質感の向上がとても素晴らしい。とくに深い艶には、これがただの艶出し剤じゃないことがすぐに体感できる。最先端のケミカルって、こんなにも進歩しているんですね」
上山さんが最後に加えてくれたひと言が、自身をあらわすもっとも分かりやすい言葉だった。なんのことはない。けっきょくただのバイク好きなのだ。
「でもいちばん試してみたいのは……自分の愛車ですね。たとえばアルミのスイングアームについてしまう水滴痕がどうなるか、楽しみです(笑)」
photo:MASAHIKO WATANABE text:宮崎正行
記事で紹介されているアイテム
取材協力:K&H [ケイアンドエイチ]

住所: 埼玉県朝霞市上内間木381-2 TEL:048-456-3830
オフィシャルサイト

MASAYUKI MIYAZAKI
宮崎正行
人文系出版社・夏目書房、自動車系出版社・二玄社/ボイスパブリケーション(『MOTO NAVI』、『NAVI CARS』、『BICYCLE NAVI』編集部)勤務を経て、編集フリーランスとして独立。オートバイ、クルマの専門誌から一般誌、WEB、広告媒体において幅広くコンテンツを制作する。1971年生まれ。自分のアイデンティティは小中高時代を過ごした中野区にあるとひけらかしつつ、大半の時間を埼玉県で費やす。中途半端に旧いモノが大好き。
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